2011年07月31日
朗報!
3月11日の東日本大震災以降、放射能問題も含めて、いい話があまり無く、悩める今日この頃だったが、本当に久々に朗報があった。
私自身も22年前、自己のバンドでグランプリを頂いたYAMAHAのコンテスト・Music Revolution(私の時はBAND EXPLOSION、もっと前はポプコン!)の大分大会の会場へ当店のスタッフ・古賀小由実の応援に出かけた。
審査の発表の時は自分事のように心臓の鼓動が高鳴るほど、緊張したが、見事、彼女がグランプリを獲得し、九州大会に出場する事になった。
オフィスカンタループとしては、前回の第4回大会もカフェカンタベリー・スタッフのMIDORIがグランプリを獲得し、2大会連続で弊社スタッフがグランプリを獲得し、本当に感激した。
応援して頂いた皆さまありがとうございました。今後も何卒ご支援の程、宜しくお願いします。
遠いわ!ブレているわ!のコンテストでのショット!


私自身も22年前、自己のバンドでグランプリを頂いたYAMAHAのコンテスト・Music Revolution(私の時はBAND EXPLOSION、もっと前はポプコン!)の大分大会の会場へ当店のスタッフ・古賀小由実の応援に出かけた。
審査の発表の時は自分事のように心臓の鼓動が高鳴るほど、緊張したが、見事、彼女がグランプリを獲得し、九州大会に出場する事になった。
オフィスカンタループとしては、前回の第4回大会もカフェカンタベリー・スタッフのMIDORIがグランプリを獲得し、2大会連続で弊社スタッフがグランプリを獲得し、本当に感激した。
応援して頂いた皆さまありがとうございました。今後も何卒ご支援の程、宜しくお願いします。
遠いわ!ブレているわ!のコンテストでのショット!


Posted by futchie at
04:23
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2011年07月13日
東北復興支援報告③
東北復興支援報告の第3弾。
■東北復興支援報告の第2弾で紹介した陸前高田市の震災前の市街地の様子。(市民体育館が見える)

■上記の震災前付近の今の様子。(市民体育館の2階から撮影)

6月20日(月)
8:30 岩手県一関市の宿泊先を出発。国道342号線~398号線を通り、宮城県南三陸町に入る。
10:00 南三陸町の被災地に到着。陸前高田市同様、この町もほぼ壊滅状態。
■多くの報道でも紹介されている町の防災対策庁舎。庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。町危機管理課職員・遠藤未希さんが防災無線放送で住民に最後まで避難を呼びかけたのもこの庁舎。




■震災前の防災対策庁舎

■津波到達時の状況



10:30 宮城県南三陸町の志津川高校避難所へ。当避難所炊事班班長の内田卓麿氏に会い、物資を寄付。
避難所への支援は、インターネット上の「ふんばろう東日本」で現状を知り、ハエ叩き、蚊取り線香、電池式の蚊取り器、ハエ取り紙、30名いる子供たちへ、ちょうど30名分のお菓子類の詰め合わせ等を寄付。
■志津川高校避難所にてパンパースで有名なP&Gのスタッフさん達がボランティアで子供たちを遊ばせていた。素晴らしい活動である。

■避難所の受付に支援物資を持っていくところ。

■避難所の癒しのスペース~このような取り組みも必要だ。

■YOUTUBEの映像でも有名な志津川高校から見た南三陸町の町。今は何もない。海が見えないところまで津波が到達している事が恐ろしい。

■津波が迫っている際の志津川高校から見た南三陸町の町。

再度、南三陸町の中心部へ。
■郵便局のような頑丈な建物もこのような状況。

■機関車のような重いものにもかかわらず.....。(展示されていた場所からかなり移動してしまったとの事)

■震災前の機関車

■町の繁華街だったところ


■震災前の南三陸町~とても穏やかでいい町だったに違いない。


■この状況下で頑張るガソリンスタンド!我々もここで給油しました。感謝。

この後、南三陸町から石巻市へ向かう。つづく~。
■東北復興支援報告の第2弾で紹介した陸前高田市の震災前の市街地の様子。(市民体育館が見える)

■上記の震災前付近の今の様子。(市民体育館の2階から撮影)

6月20日(月)
8:30 岩手県一関市の宿泊先を出発。国道342号線~398号線を通り、宮城県南三陸町に入る。
10:00 南三陸町の被災地に到着。陸前高田市同様、この町もほぼ壊滅状態。
■多くの報道でも紹介されている町の防災対策庁舎。庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。町危機管理課職員・遠藤未希さんが防災無線放送で住民に最後まで避難を呼びかけたのもこの庁舎。



■震災前の防災対策庁舎

■津波到達時の状況



10:30 宮城県南三陸町の志津川高校避難所へ。当避難所炊事班班長の内田卓麿氏に会い、物資を寄付。
避難所への支援は、インターネット上の「ふんばろう東日本」で現状を知り、ハエ叩き、蚊取り線香、電池式の蚊取り器、ハエ取り紙、30名いる子供たちへ、ちょうど30名分のお菓子類の詰め合わせ等を寄付。
■志津川高校避難所にてパンパースで有名なP&Gのスタッフさん達がボランティアで子供たちを遊ばせていた。素晴らしい活動である。

■避難所の受付に支援物資を持っていくところ。

■避難所の癒しのスペース~このような取り組みも必要だ。
■YOUTUBEの映像でも有名な志津川高校から見た南三陸町の町。今は何もない。海が見えないところまで津波が到達している事が恐ろしい。
■津波が迫っている際の志津川高校から見た南三陸町の町。

再度、南三陸町の中心部へ。
■郵便局のような頑丈な建物もこのような状況。

■機関車のような重いものにもかかわらず.....。(展示されていた場所からかなり移動してしまったとの事)

■震災前の機関車

■町の繁華街だったところ

■震災前の南三陸町~とても穏やかでいい町だったに違いない。


■この状況下で頑張るガソリンスタンド!我々もここで給油しました。感謝。

この後、南三陸町から石巻市へ向かう。つづく~。
Posted by futchie at
12:44
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2011年07月10日
東北復興支援報告②
東北復興支援報告②
6/19(日)
東北復興支援報告の第2弾。少しずつアップしていきます。第1弾の報告は大分出発から3日目の6月19日(日)の陸前高田市の村上明氏宅へ楽器を寄付したところまででした。その後から19日(日)の夜までの活動を報告。
16:00、岩手県大船渡市にある三十刈公民館避難所を訪ねた。訪れた時期は、多くの避難所で最も深刻な内容はハエや蚊の問題。日本のトッププレーヤーの納浩一氏や、USAから当店にてライブを行なったLEONA&THE JOHNSさんらの支援金により、楽器類のみならず、大量の殺虫剤や洗剤なども購入できた。本当に心から感謝したい。
避難所への支援は、インターネット上の「ふんばろう東日本プロジェクト」から情報で現状を知り、ハエ叩き、蚊取り線香、電池式の蚊取り器、ハエ取り紙等を寄付。唐突にお伺いしたのにもかかわらず、心温かく我々を迎えてくれました。東北の方々は素晴らしい!
■大船渡市三十刈公民館難所の方々と。

■避難所前に掲げられた横断幕~こんな状況下にもかかわらず、感謝の気持ちを忘れない東北の方々は凄い。

■陸前高田市の海岸沿いで見た屋根。~ソーラーパネルは何と「朝日ソーラー」だった。

■陸前高田市の海岸沿いの電柱に引っかかっていた牡蠣。~電柱の先まで波が到達した事が分かる。

■陸前高田市の広田湾の海岸沿いは至る所でこの状況。

■震災前まで普通に走っていた大船渡線の線路は至る所で寸断されている。

■震災後有名になった陸前高田市の松原で1本だけ残った希望の松の木。

18:00 大船渡~陸前高田を経由し、再び宮城県気仙沼市へ。
■気仙沼鹿折地区~まだ大型タンカー等がそのままの状態である。


18:00過ぎ、岩手県陸前高田市から、再び宮城県気仙沼市へ。「ふんばろう東日本プロジェクト」のマッチングスタッフの加藤氏から情報を頂き、ベースを津波で無くし、必要としている方を知り、納浩一さんから託されたムーンのジャズベース、チューニングメーター、シールド、ストラップ、弦のセット等を窓口の畠山さんに手渡す。(実際に必要としている方は、畠山さんの仕事関係の知り合いの高校生の娘さんで軽音楽部に所属との事)
■気仙沼市の楽器受け取りの窓口になってくれた畠山氏と!ソフトケースの中身は何とムーンのジャズベース。被災した現地に村上氏や畠山氏のような方々がいるおかげで、今回の我々の活動が支援に結びついている。本当にありがたい。

18:30 ようやく、この日の活動終了。
19:30 岩手県一関市の宿泊先に到着。食事。日本酒と餅が美味しかった。九州とは全然違う。
6/19(日)
東北復興支援報告の第2弾。少しずつアップしていきます。第1弾の報告は大分出発から3日目の6月19日(日)の陸前高田市の村上明氏宅へ楽器を寄付したところまででした。その後から19日(日)の夜までの活動を報告。
16:00、岩手県大船渡市にある三十刈公民館避難所を訪ねた。訪れた時期は、多くの避難所で最も深刻な内容はハエや蚊の問題。日本のトッププレーヤーの納浩一氏や、USAから当店にてライブを行なったLEONA&THE JOHNSさんらの支援金により、楽器類のみならず、大量の殺虫剤や洗剤なども購入できた。本当に心から感謝したい。
避難所への支援は、インターネット上の「ふんばろう東日本プロジェクト」から情報で現状を知り、ハエ叩き、蚊取り線香、電池式の蚊取り器、ハエ取り紙等を寄付。唐突にお伺いしたのにもかかわらず、心温かく我々を迎えてくれました。東北の方々は素晴らしい!
■大船渡市三十刈公民館難所の方々と。
■避難所前に掲げられた横断幕~こんな状況下にもかかわらず、感謝の気持ちを忘れない東北の方々は凄い。

■陸前高田市の海岸沿いで見た屋根。~ソーラーパネルは何と「朝日ソーラー」だった。

■陸前高田市の海岸沿いの電柱に引っかかっていた牡蠣。~電柱の先まで波が到達した事が分かる。

■陸前高田市の広田湾の海岸沿いは至る所でこの状況。

■震災前まで普通に走っていた大船渡線の線路は至る所で寸断されている。

■震災後有名になった陸前高田市の松原で1本だけ残った希望の松の木。

18:00 大船渡~陸前高田を経由し、再び宮城県気仙沼市へ。
■気仙沼鹿折地区~まだ大型タンカー等がそのままの状態である。


18:00過ぎ、岩手県陸前高田市から、再び宮城県気仙沼市へ。「ふんばろう東日本プロジェクト」のマッチングスタッフの加藤氏から情報を頂き、ベースを津波で無くし、必要としている方を知り、納浩一さんから託されたムーンのジャズベース、チューニングメーター、シールド、ストラップ、弦のセット等を窓口の畠山さんに手渡す。(実際に必要としている方は、畠山さんの仕事関係の知り合いの高校生の娘さんで軽音楽部に所属との事)
■気仙沼市の楽器受け取りの窓口になってくれた畠山氏と!ソフトケースの中身は何とムーンのジャズベース。被災した現地に村上氏や畠山氏のような方々がいるおかげで、今回の我々の活動が支援に結びついている。本当にありがたい。

18:30 ようやく、この日の活動終了。
19:30 岩手県一関市の宿泊先に到着。食事。日本酒と餅が美味しかった。九州とは全然違う。
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03:47
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2011年07月09日
東北復興支援報告①
東北復興支援報告
2011年6月17日(金)から6月22日(水)まで、岩手県、宮城県を中心に被災地の支援に行って来ました。もっと早くに報告をしたかったのですが、あまりの衝撃に気持ちの整理がなかなかつかず、遅くなってしまいました。
6/17(金)
16:00 カンタループⅡ集合~新聞社2社より取材を受けながら、楽器や機材、その他の支援物資の積み込み。POWER OF MUSIC from OITAの実行委員長、副実行委員長も積み込みの手伝いに来てくれた。
17:00過ぎ、カフェカンタベリーに、妻を迎えに。
18:00 フェリー乗場の別府港に到着。食事。
19:30 別府港出発。
■出発前の様子~大分合同新聞社様より取材して頂き、記事にして頂きました。

■フェリーはエコノミーで!

6/18(土)
早朝7:00 大阪南港に到着。
阪神、名神、東名の各高速道を通り、神奈川県でプロのジャズベースプレーヤーの納浩一さんから提供して頂いた楽器や機材類を直接、受け取り、積み込み。
■自己のバンド「EQ」のホールコンサートの開演前30分という状況下で、支援の楽器を提供して頂いた納さんと妻と一緒に。

渋滞の首都高を経由し、東北道を北上。東北道に入り、地震の為、路面の状態が予想以上に悪い。
22:00頃、ようやく宮城県仙台市内到着。市内中心街で食事。この町は平常時を取り戻しており、少し安心した。それでも宿泊のホテルの壁などはひび割れなど、多数あり。
6/19(日)
9:00に仙台市内のホテル出発。仙台泉I.Cより、東北道で一ノ関I.C経由で一関市内に入る。途中、避難所向けの支援物資をドラッグストアにて大量に購入。
■ドラッグストアにて避難所向けの支援物資購入中。楽器が満載のハイエース。

11:00過ぎに宮城県気仙沼市内に到着。海岸から5km以上の内陸部の地点で、既に悪臭。
11:30 気仙沼港に到着。あまりの悪臭に吐き気をもよおす。港付近はほぼ壊滅状態。内陸部に戻り、被害のなかった地区にて、昼食。
■気仙沼の港の状況。臭いも想像を絶した。YOUTUBEの動画でも津波襲来時の状況が見る事が出来る場所。





13:00 気仙沼向洋高校軽音楽部が現在、授業、部活を行なっている西高校に到着。日曜日にもかかわらず、予想以上の多くの生徒達の迎え入れに感激。
OBS大分放送三陸支局、読売新聞社の取材と撮影を受けながら、楽器類の受渡しを行なう。顧問の石山先生からも感謝して頂けた。
■読売新聞社様に掲載して頂いた記事。

■気仙沼向洋高校軽音楽部の皆さんと!みんなの笑顔が本当に嬉しかった。

気仙沼西高校で、陸前高田市のミュージシャンの村上明氏と合流。彼とはインターネット上の「なんとかなっぺプロジェクト」のマッチングスタッフの高橋氏を通じて知り合った。彼は被災したミュージシャン達がいる避難所を日々回り、必要な楽器類のヒアリングを行なっている。彼とは電話やメールで、この数週間、お互いにやり取りしてきた。 ようやく、会う事が出来、この日を迎える事が出来た。村上氏の実妹のご主人はいまだに行方不明のままである。
14:00過ぎより、村上氏と同行してきた岩手県山田町在住の中村さん、中山さんと共に、私も村上氏の車に乗り、陸前高田市内の被災地の各所を案内して頂いた。この町で有名なジャズスポットのジョニーも跡形もなかった。その他、市の文化会館(市民歩ホール)や市民体育館も壊滅的な状況だった。海岸近くの地盤沈下もひどい。
■震災前のジョニーがあった付近の様子。今は何も残っていない。

■震災前の市の中心部

■陸前高田市役所(下は震災前の写真)


■陸前高田市の街の様子~海から随分離れた場所でもこの状況。(下は震災前の写真)




■陸前高田の市民会館。ここのPA担当の方も亡くなったそうです。壁も屋根も抜けてしまっている。



■陸前高田市の市民体育舘~ここでは100名以上の方が避難し、生存者が3名のみだった。






■震災前の市民体育館

15:00過ぎに村上氏の自宅に到着。無事に楽器や機材等を全て手渡す事が出来た。
■長髪、長身の男性が村上氏。黒いTシャツの男女は山田町で家や楽器を失った中村さんと中山さん。

■毎日新聞社様に掲載された新聞記事。

続きはまた後日。
資料
2011年3月11日、未曾有の大地震と大津波が東日本を襲いました。
東北地方太平洋沖地震です。最大震度は7(宮城県北部)、マグニチュードは日本観測史上最大・世界4番目の規模となる9.0と発表されました。津波の高さは岩手県宮古市で国内最大となるの38.9mを記録しており、ほかの沿岸部でも想定をはるかに超える10m級の津波が発生しました。押し寄せた津波は文字通り町を壊滅し、多くの人命を奪い、戦後最大の自然災害となりました。
最初に見た陸前高田市の街の光景には衝撃をうけた。街のほとんどが失われ人口23164名のうち死者1521名 行方不明者601名(6月20日現在)
東日本大震災の被害状況(6月12日現在、警視庁)
○死 者…1万5421人(岩手県4533人、宮城県9228人、福島県1595人)
○行方不明…7937人(岩手県2786人、宮城県4781人、福島県366人)
○合 計…2万3358人
○避難者 …9万109人(岩手県2万1183人、宮城県2万2286人、福島県2万3064人)
○建物全壊…11万1100戸(岩手県2万978戸、宮城県7万1449戸、福島県1万5338戸)
○建物半壊…8万197戸(岩手県2911戸、宮城県3万4064戸、福島県2万2697戸)
陸前高田で被災した方々の証言 ※M9.0 被災地より抜粋させて頂きました。
3月11日午後2時46分。大震災発生時、福島大学2年の長男(20才)は福島県大熊町の総合スポーツセンターでソフトボール部の合宿中でした。携帯電話のワンセグを観ると、岩手県の大船渡港が映っています。「大津波警報発令」。大船渡港は古里の陸前高田市も近いため、不安を感じました。
家族に何度電話してもつながりません。約190キロの距離がもどかしく感じました。翌日3月12日の朝、長男は車で合宿所を出発しました。間もなくカーラジオから「陸前高田市は壊滅状態」と流れました。両親が営む食堂「くっく亭」は浜から200メートルほどしか離れていません。
「生きていてくれ」。泣きながらハンドルを握りました。しかし、宮城県気仙沼市でガソリンは尽きてしまいます。車を乗り捨て、がれきを歩きました。
3月11日午後2時46分。陸前高田市で食堂「くっく亭」を経営するご主人(47才)がランチタイムを終え、サケの切り身を焼いて一口食べた時でした。強い揺れがあり、停電でテレビが消えました。震源地はどこか、大津波警報が出ているのか分からない状態です。地震には慣れているつもりでしたが、今度は違うのを感じました。 「くっく亭」は名勝・高田松原が続く海沿いにあり、店から北西約500メートルの実家で暮らす両親が気になりました。
ご主人の父(83才)は認知症で、この日は宮城県気仙沼市にあるデイサービスの介護施設にいました。ご主人は傍らの妻(46才)に、母(81才)の様子を見てくるよう頼みました。 海辺から約1キロの実家には、タクシー運転手であるご主人の兄(51才)が先に駆けつけていました。母は避難用のリュックを背負い、家を出るところでした。兄のタクシーで高台に避難させてくれるだろうと安心したご主人の妻は、すぐに食堂へ戻りました。
ご主人の兄が「ばあちゃん、どこに避難すんの?」と聞きました。「この地区は市民体育館なんでな」。市民体育館までは約220メートル。ゆっくり歩いても4分ほどです。昨年発生したチリ地震の津波でも母はここに避難していました。「ばあちゃんもあそこなら大丈夫か」。兄は自分の職場に引き返しました。
食堂のご主人夫婦は店から2キロ離れた高台に建つ市立第一中学へ車で向かいました。市民体育館への避難も頭をよぎりましたが、第一中学校に通う3年生の長女(15才)が心配だったのです。 地震から約30分。外では「津波だ。逃げろ」と絶叫する防災無線が鳴り響いていました。しかし、ご主人夫婦は車の窓を閉め切っていたため、聞こえませんでした。
車が市民体育館のそばを通ると、外階段2階の踊り場は住民であふれ返っているのが見えました。この時ご主人は、中に母がいるとは思いも寄りませんでした。
3月11日午後2時46分。第一中学校は卒業式のリハーサル中でした。「地震だ。地震だ」。ご主人の長女・中学生は他の生徒たちとグラウンドに飛び出しました。しばらくして木々の間から、街のいたるところで煙が上がっているのが見えました。
間もなく捜しに来た両親の顔を見て驚きました。昨年のチリ地震津波でも食堂を閉めただけで逃げなかったからです。「どうしてここに。とんでもないことが起きたんじゃ…」。察する間もなく、陸前高田市は街ごと津波にのみ込まれていきました。そして、家も食堂も全て壊され、そして流されてしまいました
長女の無事を確認したご主人は、母が身を寄せたはずの兄の家へ歩き出しました。「お袋の顔見てくっから」。高台にある兄の家に着いたのは午後5時ごろです。兄はすでに帰宅していました。兄にご主人が尋ねました。「お袋はもう部屋にいるの?」「市民体育館へ行った」「ああ、だめだべ!」
「だめか?」 「なんで連れて来なかったべか…」
ご主人の母は市内の病院で看護婦をしていた1960年、チリ地震大津波を経験していました。市内で1414世帯が被災し、306棟が全半壊。8人が亡くなっています。「地震が来たら大事なバイクだの、なんだの心配しねえで、とにかく逃げろ」「津波に備えて、子どもと、どこで待ち合わせるか決めておけ」。それが口癖でした。
陸前高田市はマグニチュード(M)7・5前後の宮城県沖地震津波の想定をもとに浸水予想区域や避難場所を記した防災マップを住民に配ってきました。それによると、まずは比較的海から遠い場所や高台にある1次避難場所に逃げてもらう。さらに危険が増せば、体育館などの2次避難場所に移動させるはずでした。
しかし、今回の震災では市が1次・2次に指定した87カ所のうち39カ所が浸水しました。市民体育館は1次と2次を兼ねていましたが、住民を守ることはできませんでした。陸前高田市長は「体育館なら安全という安心感はどこかにあったかもしれない。津波の到達も想定より早かった」と言います。
陸前高田市は市街地の約7割が壊滅しました。市民体育館に集まった住民は約200人との情報もありますが、助かったのは3人だけです。
ご主人は第一中学校で炊き出しのボランティアをしながら避難所を回り、母を捜しました。福島県の大学で合宿中だった長男が3月13日、車とヒッチハイクでたどり着きました。「ばあちゃんは?」
3月20日の夕方、ご主人の母は市内の遺体安置所にいました。市民体育館から流されたのでしょう。約700メートル西の崩壊した信用金庫の中で、避難用リュックを背負ったまま発見されたと聞かされました。穏やかな顔をしていました。
リュックには、誰も知らない預金通帳や証書がありました。いつか、家族が津波ですべてを失うかもしれないことを分かっていたかのようでした。
その通帳などの名義は、息子2人の嫁や孫たちになっていました。
岩手県陸前高田市の市民体育館は、災害時の避難場所に指定されていました。
午後2時46分、 強い揺れが襲った時、館内では県立高田高校の女子テニス部員15人が練習中でした。主将の女子生徒は「ステージ側の壁がボロボロ砕けて落ち、天井の大きな照明がゆらゆら揺れて落ちそうだった。扉付近の部員がドアを開け、みんなで外へ飛び出した」と振り返ります。
その直後に体育館に着いた顧問の先生は「体育館の中は停電して真っ暗で、フロアは砂ぼこりが舞い『安全じゃないな』と感じた」といい、生徒たちに高台のグラウンドへ向かうよう指示しまた。部員の女子生徒は「歩くというより2列になって走った感じ。余震のたびに立ち止まった。泣いている子が多かった」と語ります。部員たちは午後3時すぎにグラウンドに到着し、津波の難を逃れました。
テニス部員と入れ違えるように、市民体育館には住民たちが避難のために集まり始めました。目撃者によると、60代後半以上の高齢者が多く、車椅子の人もいたそうです。市の防災担当者は「市民体育館に避難し、津波の恐れがあれば高台に逃げる流れでした。ただ高齢者の場合、高台まで遠くて行けないのが実情だった」と言います。
市民体育館に隣接する中央公民館の職員がラジオをつけると「予想される津波の高さは6メートル」と伝えていました。「6メートルなら体育館に来るころはもっと低くなると思った。チリ地震津波(1960年)の高さなら、市の想定では浸水は1階だけで済むはずだった」。市民体育館は海抜約3メートルの土地に建ち、地上から2階通路まで約6.4メートルありました。
別の市職員は80才になる義母を市民体育館に避難させました。「チリ地震の時も津波は線路(JR大船渡線)までしか来なかったと聞いていたから『体育館2階に逃げれば大丈夫』というのが近隣住民の認識だった」というのです。
徒歩で高台に向かっていた住民女性は、市民体育館の前で、60代ぐらいの女性が「避難所はこちらですよ!」と集まってきた住民らに叫ぶ姿を見ました。集まっていたのは50~60人。高台に歩いていた住民女性も声をかけられましたが「高台に行きます」と断ったそうです。市民体育館を通り過ぎて振り向くと、さっきまで後ろを歩いていたお年寄りたちがいなくなっていることに気づきました。「みんな市民体育館に行ったと思う。年配の人たちは、津波警報が出たら市民体育館に行くよう訓練(毎年5月実施)していた。私は昨年11月末まで福島にいて、訓練したことがなかった」と振り返ります。
◇殺到、そして津波
中央公民館の職員は、市民体育館2階に続く外階段へ避難者を誘導しました。高齢者に手を貸し、車椅子の人は2人がかりで担ぎました。「最終的に100人ぐらいだったのではないか」と話します。
陸前高田市によると、津波の第1波が堤防を越えたのが午後3時22分。海岸の松林が水に埋まり始めたのが午後3時24分。階段の下で誘導中だった公民館職員からも大きな津波が見えたそうです。2階に上がると、みんなが「ここも危ないんじゃない?」と騒ぎ始めました。「ドン」と音がして体育館1階に海水が浸入してくると「わー!」と叫び声がしました。
そして、奥にある男子トイレへ避難していた人が殺到しました。その先は行き止りで、ぎゅうぎゅう詰めだったそうです。公民館職員は両足が「濡れた」と感じた瞬間、津波にのみこまれていました。海水を飲み「ああ、これで終わりだ」と思ったそうです。「よく言われますが、本当に自分の子供たちの顔が思い浮かびました」と続けます。
公民館職員は水中で、同じようにもがく人たちの手足にぶつかりました。もがくうちに鉄骨のようなものをつかみ、思い切り頭を突き上げて水面に出ることができました。水かさは天井から約30センチの所まで上昇していましたが、水は少しずつ引いていきました。暗くて何も見えない中で「おとうさん、おとうさん」と女性の声がしました。離れた所にもう1人、男性が生き残っていました。津波にのまれてから10分ほどの出来事でした。
1階は水没したままで、何度も津波が押し寄せました。 生き残った3人はずぶ濡れのまま身を寄せ、一夜を明かしました。
陸前高田市によると、51年前に市を襲ったチリ地震の津波さは5.5メートルで、これを基準に防潮堤を築いていました。しかし、今回の震災後に現地調査した東京海洋大学教授によると、市民体育館を襲った津波の高さは、壁の痕跡などから推定15.8メートルでした。
4月11日に、陸前高田市長は言っています。「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる。」
2011年6月17日(金)から6月22日(水)まで、岩手県、宮城県を中心に被災地の支援に行って来ました。もっと早くに報告をしたかったのですが、あまりの衝撃に気持ちの整理がなかなかつかず、遅くなってしまいました。
6/17(金)
16:00 カンタループⅡ集合~新聞社2社より取材を受けながら、楽器や機材、その他の支援物資の積み込み。POWER OF MUSIC from OITAの実行委員長、副実行委員長も積み込みの手伝いに来てくれた。
17:00過ぎ、カフェカンタベリーに、妻を迎えに。
18:00 フェリー乗場の別府港に到着。食事。
19:30 別府港出発。
■出発前の様子~大分合同新聞社様より取材して頂き、記事にして頂きました。

■フェリーはエコノミーで!

6/18(土)
早朝7:00 大阪南港に到着。
阪神、名神、東名の各高速道を通り、神奈川県でプロのジャズベースプレーヤーの納浩一さんから提供して頂いた楽器や機材類を直接、受け取り、積み込み。
■自己のバンド「EQ」のホールコンサートの開演前30分という状況下で、支援の楽器を提供して頂いた納さんと妻と一緒に。

渋滞の首都高を経由し、東北道を北上。東北道に入り、地震の為、路面の状態が予想以上に悪い。
22:00頃、ようやく宮城県仙台市内到着。市内中心街で食事。この町は平常時を取り戻しており、少し安心した。それでも宿泊のホテルの壁などはひび割れなど、多数あり。
6/19(日)
9:00に仙台市内のホテル出発。仙台泉I.Cより、東北道で一ノ関I.C経由で一関市内に入る。途中、避難所向けの支援物資をドラッグストアにて大量に購入。
■ドラッグストアにて避難所向けの支援物資購入中。楽器が満載のハイエース。

11:00過ぎに宮城県気仙沼市内に到着。海岸から5km以上の内陸部の地点で、既に悪臭。
11:30 気仙沼港に到着。あまりの悪臭に吐き気をもよおす。港付近はほぼ壊滅状態。内陸部に戻り、被害のなかった地区にて、昼食。
■気仙沼の港の状況。臭いも想像を絶した。YOUTUBEの動画でも津波襲来時の状況が見る事が出来る場所。


13:00 気仙沼向洋高校軽音楽部が現在、授業、部活を行なっている西高校に到着。日曜日にもかかわらず、予想以上の多くの生徒達の迎え入れに感激。
OBS大分放送三陸支局、読売新聞社の取材と撮影を受けながら、楽器類の受渡しを行なう。顧問の石山先生からも感謝して頂けた。
■読売新聞社様に掲載して頂いた記事。

■気仙沼向洋高校軽音楽部の皆さんと!みんなの笑顔が本当に嬉しかった。

気仙沼西高校で、陸前高田市のミュージシャンの村上明氏と合流。彼とはインターネット上の「なんとかなっぺプロジェクト」のマッチングスタッフの高橋氏を通じて知り合った。彼は被災したミュージシャン達がいる避難所を日々回り、必要な楽器類のヒアリングを行なっている。彼とは電話やメールで、この数週間、お互いにやり取りしてきた。 ようやく、会う事が出来、この日を迎える事が出来た。村上氏の実妹のご主人はいまだに行方不明のままである。
14:00過ぎより、村上氏と同行してきた岩手県山田町在住の中村さん、中山さんと共に、私も村上氏の車に乗り、陸前高田市内の被災地の各所を案内して頂いた。この町で有名なジャズスポットのジョニーも跡形もなかった。その他、市の文化会館(市民歩ホール)や市民体育館も壊滅的な状況だった。海岸近くの地盤沈下もひどい。
■震災前のジョニーがあった付近の様子。今は何も残っていない。

■震災前の市の中心部

■陸前高田市役所(下は震災前の写真)


■陸前高田市の街の様子~海から随分離れた場所でもこの状況。(下は震災前の写真)



■陸前高田の市民会館。ここのPA担当の方も亡くなったそうです。壁も屋根も抜けてしまっている。



■陸前高田市の市民体育舘~ここでは100名以上の方が避難し、生存者が3名のみだった。




■震災前の市民体育館

15:00過ぎに村上氏の自宅に到着。無事に楽器や機材等を全て手渡す事が出来た。
■長髪、長身の男性が村上氏。黒いTシャツの男女は山田町で家や楽器を失った中村さんと中山さん。

■毎日新聞社様に掲載された新聞記事。

続きはまた後日。
資料
2011年3月11日、未曾有の大地震と大津波が東日本を襲いました。
東北地方太平洋沖地震です。最大震度は7(宮城県北部)、マグニチュードは日本観測史上最大・世界4番目の規模となる9.0と発表されました。津波の高さは岩手県宮古市で国内最大となるの38.9mを記録しており、ほかの沿岸部でも想定をはるかに超える10m級の津波が発生しました。押し寄せた津波は文字通り町を壊滅し、多くの人命を奪い、戦後最大の自然災害となりました。
最初に見た陸前高田市の街の光景には衝撃をうけた。街のほとんどが失われ人口23164名のうち死者1521名 行方不明者601名(6月20日現在)
東日本大震災の被害状況(6月12日現在、警視庁)
○死 者…1万5421人(岩手県4533人、宮城県9228人、福島県1595人)
○行方不明…7937人(岩手県2786人、宮城県4781人、福島県366人)
○合 計…2万3358人
○避難者 …9万109人(岩手県2万1183人、宮城県2万2286人、福島県2万3064人)
○建物全壊…11万1100戸(岩手県2万978戸、宮城県7万1449戸、福島県1万5338戸)
○建物半壊…8万197戸(岩手県2911戸、宮城県3万4064戸、福島県2万2697戸)
陸前高田で被災した方々の証言 ※M9.0 被災地より抜粋させて頂きました。
3月11日午後2時46分。大震災発生時、福島大学2年の長男(20才)は福島県大熊町の総合スポーツセンターでソフトボール部の合宿中でした。携帯電話のワンセグを観ると、岩手県の大船渡港が映っています。「大津波警報発令」。大船渡港は古里の陸前高田市も近いため、不安を感じました。
家族に何度電話してもつながりません。約190キロの距離がもどかしく感じました。翌日3月12日の朝、長男は車で合宿所を出発しました。間もなくカーラジオから「陸前高田市は壊滅状態」と流れました。両親が営む食堂「くっく亭」は浜から200メートルほどしか離れていません。
「生きていてくれ」。泣きながらハンドルを握りました。しかし、宮城県気仙沼市でガソリンは尽きてしまいます。車を乗り捨て、がれきを歩きました。
3月11日午後2時46分。陸前高田市で食堂「くっく亭」を経営するご主人(47才)がランチタイムを終え、サケの切り身を焼いて一口食べた時でした。強い揺れがあり、停電でテレビが消えました。震源地はどこか、大津波警報が出ているのか分からない状態です。地震には慣れているつもりでしたが、今度は違うのを感じました。 「くっく亭」は名勝・高田松原が続く海沿いにあり、店から北西約500メートルの実家で暮らす両親が気になりました。
ご主人の父(83才)は認知症で、この日は宮城県気仙沼市にあるデイサービスの介護施設にいました。ご主人は傍らの妻(46才)に、母(81才)の様子を見てくるよう頼みました。 海辺から約1キロの実家には、タクシー運転手であるご主人の兄(51才)が先に駆けつけていました。母は避難用のリュックを背負い、家を出るところでした。兄のタクシーで高台に避難させてくれるだろうと安心したご主人の妻は、すぐに食堂へ戻りました。
ご主人の兄が「ばあちゃん、どこに避難すんの?」と聞きました。「この地区は市民体育館なんでな」。市民体育館までは約220メートル。ゆっくり歩いても4分ほどです。昨年発生したチリ地震の津波でも母はここに避難していました。「ばあちゃんもあそこなら大丈夫か」。兄は自分の職場に引き返しました。
食堂のご主人夫婦は店から2キロ離れた高台に建つ市立第一中学へ車で向かいました。市民体育館への避難も頭をよぎりましたが、第一中学校に通う3年生の長女(15才)が心配だったのです。 地震から約30分。外では「津波だ。逃げろ」と絶叫する防災無線が鳴り響いていました。しかし、ご主人夫婦は車の窓を閉め切っていたため、聞こえませんでした。
車が市民体育館のそばを通ると、外階段2階の踊り場は住民であふれ返っているのが見えました。この時ご主人は、中に母がいるとは思いも寄りませんでした。
3月11日午後2時46分。第一中学校は卒業式のリハーサル中でした。「地震だ。地震だ」。ご主人の長女・中学生は他の生徒たちとグラウンドに飛び出しました。しばらくして木々の間から、街のいたるところで煙が上がっているのが見えました。
間もなく捜しに来た両親の顔を見て驚きました。昨年のチリ地震津波でも食堂を閉めただけで逃げなかったからです。「どうしてここに。とんでもないことが起きたんじゃ…」。察する間もなく、陸前高田市は街ごと津波にのみ込まれていきました。そして、家も食堂も全て壊され、そして流されてしまいました
長女の無事を確認したご主人は、母が身を寄せたはずの兄の家へ歩き出しました。「お袋の顔見てくっから」。高台にある兄の家に着いたのは午後5時ごろです。兄はすでに帰宅していました。兄にご主人が尋ねました。「お袋はもう部屋にいるの?」「市民体育館へ行った」「ああ、だめだべ!」
「だめか?」 「なんで連れて来なかったべか…」
ご主人の母は市内の病院で看護婦をしていた1960年、チリ地震大津波を経験していました。市内で1414世帯が被災し、306棟が全半壊。8人が亡くなっています。「地震が来たら大事なバイクだの、なんだの心配しねえで、とにかく逃げろ」「津波に備えて、子どもと、どこで待ち合わせるか決めておけ」。それが口癖でした。
陸前高田市はマグニチュード(M)7・5前後の宮城県沖地震津波の想定をもとに浸水予想区域や避難場所を記した防災マップを住民に配ってきました。それによると、まずは比較的海から遠い場所や高台にある1次避難場所に逃げてもらう。さらに危険が増せば、体育館などの2次避難場所に移動させるはずでした。
しかし、今回の震災では市が1次・2次に指定した87カ所のうち39カ所が浸水しました。市民体育館は1次と2次を兼ねていましたが、住民を守ることはできませんでした。陸前高田市長は「体育館なら安全という安心感はどこかにあったかもしれない。津波の到達も想定より早かった」と言います。
陸前高田市は市街地の約7割が壊滅しました。市民体育館に集まった住民は約200人との情報もありますが、助かったのは3人だけです。
ご主人は第一中学校で炊き出しのボランティアをしながら避難所を回り、母を捜しました。福島県の大学で合宿中だった長男が3月13日、車とヒッチハイクでたどり着きました。「ばあちゃんは?」
3月20日の夕方、ご主人の母は市内の遺体安置所にいました。市民体育館から流されたのでしょう。約700メートル西の崩壊した信用金庫の中で、避難用リュックを背負ったまま発見されたと聞かされました。穏やかな顔をしていました。
リュックには、誰も知らない預金通帳や証書がありました。いつか、家族が津波ですべてを失うかもしれないことを分かっていたかのようでした。
その通帳などの名義は、息子2人の嫁や孫たちになっていました。
岩手県陸前高田市の市民体育館は、災害時の避難場所に指定されていました。
午後2時46分、 強い揺れが襲った時、館内では県立高田高校の女子テニス部員15人が練習中でした。主将の女子生徒は「ステージ側の壁がボロボロ砕けて落ち、天井の大きな照明がゆらゆら揺れて落ちそうだった。扉付近の部員がドアを開け、みんなで外へ飛び出した」と振り返ります。
その直後に体育館に着いた顧問の先生は「体育館の中は停電して真っ暗で、フロアは砂ぼこりが舞い『安全じゃないな』と感じた」といい、生徒たちに高台のグラウンドへ向かうよう指示しまた。部員の女子生徒は「歩くというより2列になって走った感じ。余震のたびに立ち止まった。泣いている子が多かった」と語ります。部員たちは午後3時すぎにグラウンドに到着し、津波の難を逃れました。
テニス部員と入れ違えるように、市民体育館には住民たちが避難のために集まり始めました。目撃者によると、60代後半以上の高齢者が多く、車椅子の人もいたそうです。市の防災担当者は「市民体育館に避難し、津波の恐れがあれば高台に逃げる流れでした。ただ高齢者の場合、高台まで遠くて行けないのが実情だった」と言います。
市民体育館に隣接する中央公民館の職員がラジオをつけると「予想される津波の高さは6メートル」と伝えていました。「6メートルなら体育館に来るころはもっと低くなると思った。チリ地震津波(1960年)の高さなら、市の想定では浸水は1階だけで済むはずだった」。市民体育館は海抜約3メートルの土地に建ち、地上から2階通路まで約6.4メートルありました。
別の市職員は80才になる義母を市民体育館に避難させました。「チリ地震の時も津波は線路(JR大船渡線)までしか来なかったと聞いていたから『体育館2階に逃げれば大丈夫』というのが近隣住民の認識だった」というのです。
徒歩で高台に向かっていた住民女性は、市民体育館の前で、60代ぐらいの女性が「避難所はこちらですよ!」と集まってきた住民らに叫ぶ姿を見ました。集まっていたのは50~60人。高台に歩いていた住民女性も声をかけられましたが「高台に行きます」と断ったそうです。市民体育館を通り過ぎて振り向くと、さっきまで後ろを歩いていたお年寄りたちがいなくなっていることに気づきました。「みんな市民体育館に行ったと思う。年配の人たちは、津波警報が出たら市民体育館に行くよう訓練(毎年5月実施)していた。私は昨年11月末まで福島にいて、訓練したことがなかった」と振り返ります。
◇殺到、そして津波
中央公民館の職員は、市民体育館2階に続く外階段へ避難者を誘導しました。高齢者に手を貸し、車椅子の人は2人がかりで担ぎました。「最終的に100人ぐらいだったのではないか」と話します。
陸前高田市によると、津波の第1波が堤防を越えたのが午後3時22分。海岸の松林が水に埋まり始めたのが午後3時24分。階段の下で誘導中だった公民館職員からも大きな津波が見えたそうです。2階に上がると、みんなが「ここも危ないんじゃない?」と騒ぎ始めました。「ドン」と音がして体育館1階に海水が浸入してくると「わー!」と叫び声がしました。
そして、奥にある男子トイレへ避難していた人が殺到しました。その先は行き止りで、ぎゅうぎゅう詰めだったそうです。公民館職員は両足が「濡れた」と感じた瞬間、津波にのみこまれていました。海水を飲み「ああ、これで終わりだ」と思ったそうです。「よく言われますが、本当に自分の子供たちの顔が思い浮かびました」と続けます。
公民館職員は水中で、同じようにもがく人たちの手足にぶつかりました。もがくうちに鉄骨のようなものをつかみ、思い切り頭を突き上げて水面に出ることができました。水かさは天井から約30センチの所まで上昇していましたが、水は少しずつ引いていきました。暗くて何も見えない中で「おとうさん、おとうさん」と女性の声がしました。離れた所にもう1人、男性が生き残っていました。津波にのまれてから10分ほどの出来事でした。
1階は水没したままで、何度も津波が押し寄せました。 生き残った3人はずぶ濡れのまま身を寄せ、一夜を明かしました。
陸前高田市によると、51年前に市を襲ったチリ地震の津波さは5.5メートルで、これを基準に防潮堤を築いていました。しかし、今回の震災後に現地調査した東京海洋大学教授によると、市民体育館を襲った津波の高さは、壁の痕跡などから推定15.8メートルでした。
4月11日に、陸前高田市長は言っています。「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる。」
Posted by futchie at
18:21
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2011年07月02日
■週刊カンタループ 第187号■
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【今週~来週のLIVE INFORMATION】
おかげさまでこの7月で、当店は開店14周年を迎えました!15年目の突入です。これもこれまでご支援頂いております皆様のおかげです。1997年・34歳の時に奮起して、脱サラしてこの店を開いた私も48歳になりました。今後もスタッフ共々、頑張って参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
東日本大震災復興支援活動団体「POWER OF MUSIC from OITA♪」
■公式ブログhttp://d.hatena.ne.jp/powerofmusic0/
<新たな活動の報告>
6月17日から22日まで、東北の楽器支援に行って参りました。今回の活動の成果として、東北地方のミュージシャンの方々と太いパイプを築く事が出来ました。今後も継続して支援していく所存ですので、どうかご協力頂ければ幸いです。現地に行って分かった事ですが、全く復興は進んでいません。そしてまだまだ足りない楽器や機材が沢山あり、困っています。エレキギターではストラト、レスポール、テレキャスター、ベースではプレシジョンベース、ジャズベース、5~6弦ベース、20インチバスドラ、12インチタム、14インチのフロアタムのセット、エフェクターではデジタルディレイ、リヴァーブ、歪み系、マルチエフェクター、アンプではJC-120、ギタースタンド、8チャンネル~16チャン位のミキサー、マイク、マイクスタンド、PA用のスピーカ―では300W~400W位の入力のもの、キャノンケーブルなどなどです。寄付金も随時受け付けています。※今後は宅配便等で、ある程度集まり次第、現地に発送していきます。
新たにミュージックマンとギブソンのSGベースをそれぞれ寄付して頂きました。
毎日新聞社様の記事です。http://mainichi.jp/area/oita/news/20110625ddlk44040666000c.html
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※21:30より通常営業です。
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毎年恒例の開店記念ライブを行ないます。当店にて縁の深いミュージシャン達が一堂に会する貴重なイベントです。是非、遊びにお越しくださいませ。
出演:16:30 LOG CABIN BOYS(Bluegrass)/17:00 dois(BossaNova)/17:30 笑路(Irish)/18:00 so-ma(ギター弾語り)/18:30吉良剛(Classical Guitar Solo)/19:00 Shownin(Bass Solo Performance) /19:30 MARCOS(Brasil)
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OPEN:19:30/START20:00 music charge:\4000(別途1ドリンクオーダー)当日500UP
※7月5日(火)までにこのメールアドレスにご連絡頂ければ、前売りチケットのご予約を承ります。
ジャンクフジヤマライブ映像 http://www.youtube.com/watch?v=EayOuFxWQyM&feature=related
天野清継 (ギター)1956年8月17日東京都出身。幼い頃からJAZZ、 LATIN、 クラシック音楽などに親しみ、3歳でピアノ、小学生でギターを始める。大学卒業後、渡辺貞夫グループの全国ツアーに参加。また神崎on the road・益田幹夫・MALTA・阿川泰子・中本マリ他、ライブやレコーディングに参加。1988年渡米。帰国後、1991年にアルバム"AZURE"(JTピースライトボックスCF曲)をリリース。自らもCFに出演し、大ヒットアルバムとなる。2作目の"Branche"リリース後、ピアノの国府弘子とアルバム"Heaven" "Heaven and beyond・・・"をリリース。'92年'93年連続で、SWING JOURNAL誌日本ジャズメン読者人気投票ギタリスト部門第2位を獲得。2004年9月には初のJazz guitar Trio Albumが発売。オリジナル活動以外では、NHKロシア語講座テーマ曲をはじめ、テレビ・CF等の音楽製作及び演奏の他、COBA、渡辺貞夫、渡辺香津美、川井郁子、夏川りみ、平井堅他、様々なアーティストのレコーディングやコンサートツアーに参加。
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http://www.youtube.com/watch?v=TRQbosytGEY&feature=related
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渕野がピックアップした選りすぐりのROCK、FUNK、JAZZ、SOUL、ボサノヴァ等などポピュラーミュージックを毎週オンエアしています。
下記URLをクリックして、トップページの「NOAS FMのインターネット同時放送を聴く」をクリックしてください。
番組は毎週火曜日19:00~20:00です。再放送は毎週日曜日の19:00~。またi-phoneのi-コミュラジというアプリでも聴く事が出来ますhttp://www.789.fm/
OFFICE CANTALOOP
music house CANTALOOPII
http://www.cantaloop2.jp/
Cafe Cantaberry
http://cafecantaberry.junglekouen.com/
渕野 浩士 KOJI FUCHINO
TEL 097-548-5363 FAX 097-549-6125
e-mail canta2@fides.dti.ne.jp
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